@kyanny's blog

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Book: 諦める力

諦める力?勝てないのは努力が足りないからじゃない

諦める力?勝てないのは努力が足りないからじゃない

元陸上選手の為末さんの「諦める力」を読んだ。「勝てる見込みのない場所で努力を続けるよりも、自分の能力で勝てるフィールドを見つけて少ない努力で勝つ、それが戦略であり、勝ち目のない勝負を避けるために諦めることは決して後ろ向きな決断ではない」みたいなことがいろいろ表現を変えながら繰り返し語られていて、自分も似たようなことをよく考えるので印象に残った。

ここ二、三年で自分のキャリアについて考えることが増えた。ソフトウェアエンジニアの仕事に年齢は関係ないのであまりそれを基準にしたくはないが、二十代半ばくらいの頃は「自分はおそらくこの分野で一番の人物にはなれないだろう、しかしあくまでそこを目指して努力するべきだ」と考えていた。今思えば、不可能なことに挑戦する自分(と若干の悲壮感)に酔っていたのだと思う。

しかし三十代に入り、「自分の能力やできる努力の量、費やせる時間等々では一番になるのは到底無理だから、一番になれなくてもこの仕事で食べていける方法を探そう」と考えるようになった。ソフトウェア開発の仕事は好きだし他のことに比べて得意だという自負もある。その仕事で安定してそこそこ稼ぐのが自分の目的で、一番になることは単なる願望に過ぎなかった、そんな感じだろうか。

理屈ではわかっていても感情的に折り合いをつけるのは難しい。自分は見栄っ張りなところがある。注目を浴びるのが好きだから、ソフトウェア開発者のコミュニティで一目置かれたいという野心も手伝っていろいろ発表をしたりもしてきたし、ブログを書くのも一番の理由は自分自身のためと言いながら、はてなブックマークでの反響を人一倍気にしてきた。でも残念ながら、一番になれるほどの人気も反響も得られなかった。

為末さんは著書の中で、「陸上の花形競技である100メートルは競技人口も飛び抜けて多く、才能ある人が多数しのぎを削っている。自分がそこで勝つのは無理だと悟って、マイナー競技だが勝てる確率の高い400メートルハードルに移った」と言っていたが、叶わない願望を前に自分がとった行動はこれと真逆だった。「勝てるかもしれない」という夢を見れないくらい広いステージに行こう、と思ったのだ。

一番になりたいという競争心がどこからうまれるのかを自分なりに分析してみた結果、「東京で一般消費者向けのウェブサービス開発をしている職業ソフトウェアエンジニアのうち、コミュニティ内で目立っている人たち」という層を過剰に意識しすぎている、という結論に達した。この条件に当てはまる人たちは、自分の感覚だと二百人から三百人くらいだ。三百人と競争したら、頑張ればベストテンくらいには入れるような気になってくる。しかしその中には世界でもトップクラスの人たちもいて、この小さい集団のランキングで上位に入るのは想像よりずっと難しい。

それならいっそ、ランキングの順位を意識するのなんてばかばかしいくらい広大な集団のなかに身を置いたらどうだろう。三百人中で十位下がったらショックだが、三百万人中で十万位下がっても気に病むことはないような気がする。それはもうランキングと呼べる性質のものではない。他者を意識して競うことへの執着心を断ち切れるのではないか、と考えた。

先日登壇したイベントで、質疑応答の際に「前職では Heroku の競合にあたるサービスを作っていたのに Heroku のヘビーユーザー企業へ転職したのはなぜか」という質問を受けた。その場にふさわしい質問だったかどうかはさておき、「英語でソフトウェア開発をする仕事に就きたかったから」と答えた。そのときはキャリアアップ的な側面を押し出して回答したが、改めて考えると「勝ち目のないランキングでのし上がることを諦める」という動機も大きかったと思う。

最近、仕事でロンドンの開発者とやり取りすることが増えた。イギリス人の小難しい英語に首を傾げながらモジュールの設計方針について議論したり、どの国から来たのかもわからない人のコードレビューをしたりしているが、不思議と彼らに対して競争心を感じることはない。こちらが日本のどこかのランキングで上位にいたとしても彼らはどうとも思わないだろうし、そういう価値観が通用しない相手だからこちらも変に意識することもなく肩の力を抜いて接することができている。

自分が固執していたものは多様な価値観に基づく「良し」のうちの一つにすぎず、その世界の外で暮らしている人たちのほうがずっと多い。そういう風にものごとを相対化してとらえられるようになった。最初からそれを狙って環境を変えたわけではないが、自分にとって望ましい変化が得られたことは大きな成功だったと思う。

特に結論めいたものはないが、毎日暮らしているなかでふとした隙間時間—歩いているときとか、湯船に浸かっているときとか—にこういうことを考えていて、そういう断片的な思考の積み重ねが自分自身の価値観を築いていくのだと思う。たまにこうして文章化することで、もやもやとしてつかみ所のなかった思考にくっきりとした輪郭を与えられる。こういう作業には、やっぱりブログが一番向いているな、と思う。