@kyanny's blog

自分の不名誉になるような考えを最初に大胆に表明することは、自立への第一歩となる - ニーチェ ドイツ哲学者

クリルタイに参加した

このたびクリルタイに参加するという栄誉に恵まれた。
時間を忘れ、非常に有意義なひとときを過ごすことができた。

非モテの向かうべき方向性について、基本的な部分で合意できたように思う。それは、真の非モテを探してはいけないということだ。

俺は、「非モテは内ゲバをしている場合ではない」という考えに同意する。内部に序列を作りだし、「この線より向こう側にいるお前なんて非モテじゃない」と切って捨てるやり方は破滅を招く。非モ天下一武道会を開催して最後に「真の非モテ」が残ったところで、モテはそれをあざ笑うだけだ。

もう一度、非モテという言葉を考え直そう。「モテに非ず」と書いてあるじゃないか。非モテが敵視すべきは、自分より恵まれている癖に非モテを名乗る裏切り者なんかじゃない。非モテコミュニティの中で頂点に立っているものを、そのコミュニティごと馬鹿にするモテこそが、本来非モテが敵とすべきものだったはずだ。

ではモテとは何か?この問いに、「モテとは●●のことだ」という明確な答えを出そうとしたことが、非モテが内紛に向かった原因だと思う。モテとは多数派のことだ。F1層やDQNや負け犬という言葉は、多数派の一部分を切り取ることしかできない。負け犬との闘争の末それを駆逐し勝利を収めたとしても、多数派は痛くも痒くもない。新しく対非モテを担う言葉を作ればいいだけだ。

非モテは「多様性を認めろ」という主張を貫くべきなんじゃないだろうか。「モテ側のほうがいいにきまっているし君だってそう思うはずだから、こちらへ来い」という意見に対して、「いや、自分は非モテ側でいいからほっといてくれ」と言える自由を手に入れること。それが非モテの安住への道筋だ。モテの価値観に従わない人もいる、ただそれだけのことを認めさせる切り札として、「非モテ」という言葉は在るべきじゃないだろうか。非モテという言葉に強い執着のある人ほど、モテの価値観からうけるプレッシャーの辛さを知っているはずだ。知っているなら、そのプレッシャーに対抗する術がどれほど価値あるものかもまた、わかるはずだ。

非モテは強い結束を求めるべきじゃない。必要なのは弱い連帯だ。誰かが非モテの名乗りをあげたらそこかしこから同志が集まってきた、しかし仲間として共闘するほどの統一はない、というのがこれまでの非モテの流れだった。以心伝心の少数精鋭を選りすぐってはいけない。多数派を切り崩すのではなく、受けるダメージをいかに緩和させるか。そのために、一人一人のまわりにめぐらされた膜のように、非モテという層は振舞えばいい。

モテないのも彼女がいないのも童貞なのも、突き詰めていけば個人の問題だ。何人の同志がいようが、自分自身の抱える悩みはなくならない。彼女がいようが結婚していようが「そういう非モテもいる」と考えることが大事だ。「彼女がいなければ人ではない」という人、そういう人たちが多数派を占める風潮の中で、はっきりNOといえるようにしていく。そのときの心のよりどころとして、それぞれの考える非モテがあればいいと思う。