@kyanny's blog

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ラピュタ滅びの呪文は波動砲かフェーザー砲か?

2006年1月28日


2003年ごろ、ウェブ上に「手順を踏む美学 正しい波動砲の打ち方」という記事があった。


「波動砲には,簡略化はあれど,発射には厳然とした手順=ドラマがある」のに対して、スタートレックのフェーザー砲は

  • 艦長: フェーザー砲発射。
  • クルー: 発射!

と即物的、手段的であり、発動自体にドラマを求めていない、ということを対比していた。


波動砲は、有名な「エネルギー充填120%」をはじめ、「最終セーフティ解除。圧力限界へ」「電影クロスゲージ明度20」「タキオン粒子出力上昇」「発射10秒前。対ショック、対閃光防御」など、緊張感あふれる複雑な呪文と儀式を踏んで発射される。安っぽいといえば安っぽいのだが。これは、魔法少女、ロボット、戦隊などのキメ技シーンでもおおむねそうだ。恐らくこういう様式美、分かり切っているパターンの繰り返しが、文化的に受け入れられ、好まれるという面があるのだろう。言葉自身にちからがある、という言霊の発想も、アジア/ウラル的…原型なのかもしれない。また、厳しい制作現場的には、ストック・シーンの切り貼りで毎回1分くらい稼げる、というのも、かなり大きいだろう。ロボットものだと発進シーンから搭乗、合体と、音楽にからめて2分くらい稼ぐのもあった。


ところで、ジブリ作品は、全体的に伝統パターンから脱出しようとしている面があると思うが(悪役との戦いをテーマにしないなど)、ラピュタの滅びの呪文も、最終呪文、最終兵器ではあるが、発動は波動砲型ではなく、フェーザー砲型である。「ムスカの脅しに対して、子どもたちは滅びの呪文を口にして、ラピュタは崩壊する」というストーリーの単なる手段であり、滅びの呪文自体にドラマを求めていない。言語学的には、よく使う言葉は短くなり、あまり使わない単語は長いのが普通で、まず使うことがないはずの滅びの呪文があれほど簡潔なのはおかしいのだが、そういうことも含めて、呪文自体にはこだわりがないのだろう。


論点を明確にするために、ラピュタの滅びの呪文をヤマト風、伝統風にやると、例えばこんな感じになる。

  • ムスカ「時間だ、答えを聞こう」
  • (武器を捨てる)
  • ムスカ「ん?」
  • シータ「バリアステール、ウェリアステール、城よ、応えよ!」
  • (轟音とともに床と天井が激しく揺れ始める)
  • (ムスカ、尻もちをついて武器を落とす)
  • ムスカ「な、何だ…」
  • シータ「ホス・ラピュト・ラピス・ラズーリ、エテリア、ルーソメノン!」
  • ムスカ「ま、まさか、その呪文は…」
  • (さらにあちこち崩れ始める)
  • ムスカ「や、やめるんだ! やめてくれー」
  • (あちこち崩れて、目に当たる)
  • ムスカ「目が、わたしの目が」
  • シータ「塵を重ねし人の子の塔、天に至りしとき、まさに塵に返らん」
  • (パズーと手を握り合って)
  • 「ラピュタの美しき魂が、邪悪な心を打ち砕く。
  • ラピュタ・エセリアル・サンダー!」


少しふまじめな誇張があるが、これが伝統パターン、呪文の使用自体にドラマを求めるというアプローチである。日本の作品のファンなら、これが、ありがちなパターン、というのは、すぐ分かると思う。最後のせりふに達した段階で、もうお約束として「ああ、がきめらが勝ったな」ということが確定するし、「あんな短い時間でどうやってこんな長い呪文を教えたんだろうね」というツッコミで笑い合うところまでが、お決まりという感じである。(さらに言えば、子どもたちが自分の命を犠牲にして、地球を救ったという特攻ナニワ節が好まれるかもしれない。)


つまり、伝統的発想では、最終呪文は間違えて発動しないように何重にもロックされている、と考えるのが「普通」である。「バリアステール、ウェリアステール」とまずは専用パスワードを打ち込んで「城よ、応えよ!」と特殊サブシステムを起動する。ヤマトの「非常弁、全閉鎖。エネルギー充填120%」などにあたる。そして、「ホス・ラピュト・ラピス・ラズーリ、エテリア、ルーソメノン!」と儀式を行い(最終セーフティー解除、電影クロスゲージ明度20)、「塵を重ねし…」とさらに緊張を高め(総員、対ショック、対閃光防御)、「ラピュタ・エセリアル・サンダー!」(波動砲発射)とやるわけである。


そして、そのパターンを念頭に置くと、ラピュタの実際の呪文はとても短い。また、こういうパターンは根源的に好まれると同時に、根源的に安っぽい面がある、ということにも、思い至るだろう。ストーリーそのもののセンスオブワンダーで勝負せず、口先、小手先のからみだからである。とはいえ、こういう小道具がまったくないのも寂しい。トールキンにもエルフ語があり、スタートレックにもクリンゴン語がある。そういう細部にこだわるマニアックさは、普遍的で、要は使い方や程度の問題だろう。


伝統作品で安っぽい感じを与えるのは、手法というより、その背後にある「わたしは無力で非力で平凡だが、ある言葉を知っていて、その言葉を口にすると無敵になる」という被虐待者の妄想的プロトタイプ、変身願望なのかもしれない。


ムスカは、ジブリ作品では珍しい悪役と評されるが、ラピュタ文字の解読は、現実世界ならノーベル賞ものの偉業だろう。ラピュタ文字の単語をびっしりメモしたその手帳からは、未知への真剣な情熱、古代への情熱が感じられる。かれもまた、子ども時代からずっと、自分の異質性をうすうす感じ、あるいは集団にとけ込めず、自分のアイデンティティー、源流を求め、さまよいつづけてきたのかもしれない。自分の真のふるさとを発見したとき、かれがそこに命をかけたのはふしぎではない。ムスカ視点で語ると、苦節数百年、幻の王家復興を図ろうとする物語、しかし王家の内紛に敗れ失意のうちに滅び去る…ということになり、それはそれで、案外、“日本人好み”になるのかもしれない。