どうにも心に引っかかるものがある、語りたくなる。
SNS やブログで感想を読んでいて、おれは「諦めの悪い大人」の物語に弱いんだな、と気づいた。しぶとい、未練がましい、業が深い、など。
おれ自身は創作と名のつくものはたぶん何一つしてこなかったけど、長期スパンでの諦めの悪さはある、それは自分の強みですらあると思う。だから、創作者としてではなく諦めた・諦めようとしている・でも諦められない人としての先生に感情移入したのだとわかった。高校生の創作者たち(諦めたものも含めて)にはそこまで感情移入しなかった。もちろん年齢や立場が違いすぎるのもあるが、それなら先生だって自分とはだいふ離れた存在なわけで。
「未明」を劇中で聴いたとき、切なくも前向きな曲調で、「おしまいの歌」だとは思えかなった。歌詞を読んでみたが、第一印象が変わるどころか、未練たらたらで辞める気ないじゃん、辞めなきゃと自分に言い聞かせるための歌という点では友人の指摘は正しい部分もあるが、総じて主人公の解釈のほうが合ってるだろ、と思った。歌詞の分析をしてるときの独り言でも、そういう解釈をしている。
先生が拒否したのは、あの歌をわかってないからではなくて、むしろ本心を見透かされた、本音では辞めたくないんでしょ、と痛いところを指摘されたからでは。しかもそれを、まだ創作の苦しみを知らず純粋に楽しんでいるだけで先生の苦悩を一ミリも理解していない主人公に突きつけられた(主人公本人は突きつけている自覚すらない)、それが我慢ならなかったのではないか。
先生が何度か「それ以上近寄らないで」というのは、文字通りの意味だけではなく、主人公から発せられる陽を避けたい陰、という対比でもあったのでは。自分はもはや彼のように純粋に創作を楽しむことはできない、だから純粋すぎる存在を不快に感じ、避けようとした。最後に先生から握手を求めたのは、創作への葛藤をもう一度振り払って前向きになれたから、主人公の陽と対等に向き合えるようになった、ということでは。
そもそも先生、100 曲も作ってきて、「これでダメなら最後にする」といって作った 100 曲目の「未明」があんな曲で、本当に最後にする気があったのか、いやその気はあったにせよ本当に最後にできたんだろうか、という疑問。主人公に心動かされなくても、遅かれ早かれ 101 曲目を作ったのではないか。それはもはや作りたいとかではなく、作らずにはいられない、そういう星のもとに生まれてしまった人なのだ、ということで。ただ、業に突き動かされて作る 101 曲目はおそらくそれまでの 100 曲と質的には同様で、つまり芽が出る可能性は低く、しかし主人公の「エール」に後押しされて作るであろう 101 曲目は何かしら違ったものになる可能性があり、そこで未来が分岐している。そういう希望のためにあの映画はあったのだ、といってもいいのかもしれない。
先生を見ていて、戸田誠二の「スキエンティア」収録の「覚醒機」と重なった。売れないミュージシャンの主人公は、使えば天才になれるが早死にする機械を使わず、芽が出ないまま。これで最後だと覚悟を決めて臨んだオーディションで酷評され心折れて音楽の道を諦めるが、
…才能が あるとか ないとか、
親のためとか 彼女のためなんて 全部言い訳だ。
オレはただ つくり続けるつらさに 耐えられなかったんだ。
そういった彼は加齢とともにライフステージの変化にも直面していて、この独白とは裏腹に辞める理由があった。
一方の先生は、100 曲作って YouTube?の再生回数も数百件と伸び悩み、どころかほぼ世界から注目されていなくてどれほど辛かったか、は映画の中でも自身の口から語られたが、しかしそれでも辞める理由、本人が自分にも他人にも「これで私は音楽を諦めました」といえる正当な理由はあったのか?というと、なかったんじゃないかと思うのだ。
おれは創作する側の人間ではないからその苦悩がわからずこんなことを言えてしまう、感受性の乏しさゆえのことなのかもしれないが、しかしやはり先生は、他責にできる理由を何も(とまでは言わないが……親との約束、プレッシャーはあっただろう)持っていないが故に、自分の意思のみで諦めることはできなかったのではないか、と思うのだ。