@kyanny's blog

My thoughts, my life. Views/opinions are my own.

サッカーの応援は、自分がちっぽけな存在であると実感できるところが良い。

「みんなの力を合わせれば」みたいな方向性とは真逆で、何百人何千人の声援の中では自分一人がどれほど大声を出そうが誤差、自分がいてもいなくても声の総量に与える影響などない。ビジュアル面においても同様で、「スタジアムを埋め尽くす観客」から自分一人いなくなっても見た目は何も変わらないし誰も気づかない。

人生も半分くらい過ぎると、もういい加減「自分はどのような分野においても何者でもなかったし何者にもなれはしない」という事実を受け入れざるを得ない。のだが頭ではわかっていても完全にすっぱり諦めることはできず、まだ何かあるんじゃないかという虚しい妄想を止められない。

スタジアムで「幾多のただの赤い点の一つ」として誰にも聞かれず誰とも区別されない声を張り上げている間は、自分という存在の小ささを正しく認識できる。それでいいのだと肯定されている気にすらなる。それは一種の安心なのだ。

普通は壮大な大自然を前にして畏怖を感じたりするときに自分という存在の相対的な小ささを実感したりするものなのだろうけど、そのレベルの大自然を見たことがないせいか、そういう経験がない。もしかしたら見たことがあっても忘れたのかもしれない。所詮その程度の感受性しか持ち合わせていないのだ。おれの感受性はどこまでも内向的で内省的なんだ。アウトドアではなくインドア、アウトサイドではなくインサイドに向いているんだ。