shelff 四ヶ月目の一冊。今月は分厚い本が多いにもかかわらず読むペースは遅い。読む時間を捻出できていない。そのぶん運動している。
佐々木俊尚というと十何年か前に「キュレーション」をベタ褒めしてて、しかし当時のネットは「NAVER まとめ」を皮切りにいわゆる「まとめ系サイト」が隆盛を極め、おれはそれをとても冷ややかな目で見ていたので、佐々木俊尚についても同様にああ、キュレーションの人ね、と冷めた印象を抱いていた。
この本は一言で言うと、なんだろう。彼の政治思想に関する本、なのだろうか。すでに明らかになっている事実を整理している部分についてはとてもわかりやすく、ためになったが、まさに本書のテーマである未来の話になると途端にフワフワして、胡散臭いとまでは言わないが、楽観的すぎる、という感想。
2015 年、つまり 9 年前に書かれた本なので、未来予測に関しては外れていても無理はないし、当時からすれば「近い未来」を生きながら答え合わせをするのはずるい。それは自覚している、その上で、ネットワークがもたらす未来のコミュニティの形について牧歌的・楽観的すぎた点は指摘したい。
2024 年、ネットワークはデマと偽情報であふれ、良識のある人はもうオルタナティブメディアのメインストリームで発信などせず、ノイズのない内輪のコミュニティで少数の信頼できる仲間とだけ交流している。たしかにマスメディアの影響力はいくぶん弱まったが、グローバルプラットフォーム企業が作り出した新時代のマスメディアは旧来のそれとは比較にならないくらいひどい情報を垂れ流している。生成 AI の急激な進歩によって状況は悪化し続けている。
おれの見解は悲観的すぎるかもしれないし、今後数十年あるいは数百年かけて事態は改善していくのかもしれない。しかしそれはそれとして、佐々木俊尚は事実 = 過去を記述するジャーナリストであって未来を語るビジョナリーではない、というのがこの本の限界を定めていると思う。
一章はとてもよかった。日本における保守と「リベラル」が、いかに本来の(欧米における)保守とリベラリズムと異なるのかを、歴史的な経緯に触れながら解説している。両陣営の政治思想的な矛盾ー「リベラル」は主流派への反論に終始した結果として反米反戦と緊縮財政を主張の中心に置くことになり、欧米における保守と似通った政治スタンスをとるのに対し、保守陣営は日米安保(親米)と積極財政という政策によってリベラルな政治スタンスをとるーについて非常に良く理解できた。人生で初めて、保守対リベラルという構図が、なんとなくではなく論理的に理解できた。
二章は、大前提である「ヨーロッパの普遍主義」というものがピンとこなかったため、一章ほど腹落ちしなかった。
三章は、すでに書いたように楽観的すぎる未来像で、引き締まった一章の内容とは雲泥の差だった。
せっかく機会あってこれを読んだのだから、どうせなら「レイヤー化する世界」も読んでみようか、と思った。そちらは書名に聞き覚えがある。
ぜひ引用したいと思った箇所。どれも概念の説明で、そうだったのか、そういう意味だったのか、そういうものだったのか、と視界が晴れやかになるような感じがした。
現代のリベラルの基本理念は、こうだ。 「人々には生まれながらの自由がある。みんなが自分で人生を選択し、自由に生きていくためには、それを妨げるような格差や不公正さを取り除かなければならない」 p25
設計主義というのは、人間の理性によって社会を設計できるという意味だ。リベラリズムの根底にある「普遍的なもの」「理想」「理念」への道すじという考え方に近い。人間社会には民族や歴史を超えた「普遍的なもの」があり、その普遍へと向かうのが人間の使命であるというような哲学である。 p71
愛国主義は、英語では三つの単語がある。ステイティズム、ナショナリズム、パトリオティズム。それぞれステイト(国家)、ネイション(国民)、パトリア(郷土)に対応している。 ステイティズムは政府の力を強くするという考え。国家統制主義ともいう。 ナショナリズムは、国民がひとつになって団結するという考え。これが一般的に言われる愛国心にいちばん近いだろう。 パトリオティズムは、郷土とそこに住む人々への愛着心だ。郷土愛である。日本国への愛ではなく、たとえば下野国や加賀国への愛がそれにあたる。 p79
社会学者見田宗介氏は『近代日本の心情の歴史』で、漂泊や無常こそが日本の民衆の歴史意識の根底をなす世界観ではないかと指摘した。「普遍的なもの」を目指して歴史をみずからつくっていくという近代ヨーロッパの進歩の感覚と比べ、日本人は同じ変化であっても、亡びゆくものや去りゆくものに観念がいきがちなのだと。 p224