病気以外で自分の人生観に影響を与えた出来事がある。
むかし勤めていた会社で、おれは無自覚に主流派の派閥に所属していた。末端だったし当時は派閥だという認識もなかったが、いま振り返って客観的に判断すれば紛れもなく派閥だったと思う。
ある出来事をきっかけに、おれは非主流派の派閥に所属する人々と親しく付き合うようになった。彼らの交流を通じておれは初めて、非主流派は主流派から冷遇されていることー少なくとも非主流派の人々はそのような印象を抱いていたことーを知った。
単なる勘違いだったのかもしれないし、露骨な悪意に基づいたものではなかったのかもしれない。これもいま振り返って考えてみると、どこにでもあるようなコミュニケーション不全の一例に過ぎなかったのだろうなと思える。非主流派の社内における立場にも諸事情があり、自然と溝ができてしまっていたとしても無理はない。誰が悪いという話ではない。というかそもそもおれの受け取り方がオーバーだったり間違っていた可能性すらある。
しかしこの出来事は自分の価値観を大きく揺さぶった。自分が信頼していた人について、やはり自分が信頼している別の人が自分とは真逆の評価をする、そういうことがあるのだという事実は、おれに「相対化」という概念を強烈に植え付けた。それ以来、おれは情報を得たとき無意識にそれへのカウンターパートになる情報がないか探そうとする癖がついたように思う。
相反する二つの意見があるとき、誰が言ったかとか、どれくらい支持されているかなどの状況証拠に流されて鵜呑みにしてはいけない、という話ではない。それは当たり前で、それ以前に「どちらかの意見が正しく、もう片方の意見は正しくない」という仮定を暗黙のうちに置くことの危険性の話だ。
どちらの意見も本人にとって正しいというだけでなく、第三者からみてもどちらも正しいーどちらも間違ってはいないーように感じられる、という事態もある。そういう価値観は少なからずおれの行動にも影響を与えていると思う。おれは子供の頃から人間関係を築くのが不得意なほうだったが、その出来事以来、他者との距離を詰めない傾向が強まった気がする。相対化されてしまう可能性を認識しつつ親密な関係に入れこむというのは、おれにはどうも難しい。家族でもなければ、理屈を度外視してまで付き合うことはできない。