Duolingo を再開するにあたりイタリア語を選んだのはファンなプロ自転車選手が万一来日したときイタリア語で話しかけたいからだと書いたが、ふと「おれもう『サインください』をイタリア語で言えるじゃん」と思った。
Tu scrivi Filippo Ganna, per favore.
- Tu = You あなた
- scrivi = write 書く
- Filippo Ganna = その選手の名前
- per favore = please お願いします
直訳すると「あなたはフィリッポ・ガンナと書く、お願いします」と不自然だけど、サイン色紙とペンを差し出すなり、自分が着てるレプリカジャージを指差すなりしながら↑のように言えばサインくれという意味だと通じるだろう(まあサイン色紙は何も言わなくても伝わると思うが、何か一言言った方が良いに決まってる)。
こういうのを言語の運用能力というか、使いこなせてるというのだろうか。ペパボ時代、おれは関わらなかったけど会社が EC 支援サービスの海外展開をやってて(年単位で頑張ったが撤退)、そのとき翻訳のアドバイザー的な役回りで入社した人がバックパッカーとか現地滞在などの海外経験豊富で、その人が「英語は言葉だから知識じゃなくてコミュニケーションが大事、伝わるなら文法とか単語とか細かいことはいいんだ」的なことを言ってたなあと、これは折に触れて何度も思い出してるのだがまた思い出した。それ聞いた当時は英語コンプレックスが強かったので「それは英語ができる人だから言えることで、もっと全然下があることが見えてないだけでは」と思ったものだった。その当時は「正しい英語でないと恥ずかしい」という感覚が人並みに強くあって、↑みたいなめちゃくちゃな作文で「これで意思疎通できるかも」なんて大それた考えを持つことは決してなかった。人間変わるものだ、変わる部分は。