情報処理2015年12月号特集記事「20年目のRubyの真実」インタビュー-情報処理学会
「rspec の should_not be とかだいぶ予想外」「マクロが無くても rsepc を書けるので(Lisp の)マクロは無くてもいいかな」のあたりが面白かった。「ふううのコンピューターの CPU コア数がこんなに増えたのも、メモリが案外増えなくて未だにボトルネックになってるのも予想外」というあたりは非常に興味深かった。そして昨年末の RubyKaigi で mruby 触ろうと思ったものの仕事が忙しくてすっかり忘れていたので今年こそ触ろう。
持ち場で頑張ることを誇りにしている人の話 - ベンチャー役員三界に家なし
本題とずれた話だが、おれは「真面目で自分の持ち場意識が高い人」こそが組織を官僚化させると思っている。その人個人に罪はない。真面目で(良いことだ)、与えられた仕事に忠実で(良いことだ)、でも融通が利かなくて想像力に欠ける。自分が持ち場で最高のパフォーマンスを発揮することを意識するあまり、局所最適にこだわり、全体としての効率とか成果の最大化という視点で物事を考えられない。結果、ただやるべきことをやっているだけなのに、いやむしろ「ただやるべきことをやっているだけだからこそ」、全体のパフォーマンスを悪化させてしまう。
自分にも少なからず心当たりがあるだけに耳が痛い。自分が頭の固い小役人のような人物に成り下がらないためにはどうすればよいか。まだまだ考え中、試行錯誤を繰り返している最中だが、大事なのは相手の仕事を尊重すること、ひいては相手の仕事や責任、状況への配慮と想像力を失わないことだと思う。では、どうすれば配慮と想像力を維持できるだろうか。ひとつ有望だと感じているのは、「相手の時間は自分の時間と同じ価値がある」という思考法だ(時間が万人にとって同じなのは当然なのだが、あえて改めてそれを意識してみる、ということ)
仕事を頼んだり会議をしたりするとき、「この仕事をこれくらいの時間でやってもらうとして、逆の立場だったら自分はそれだけの時間を費やすことに納得できるか?」「この議題でこういうことを決めるために会議をするとして、その会議は自分が一時間費やす価値があるか?同じ一時間を相手に費やしてもらう価値があるか?」と考えてみる。自分が一時間使うのを惜しいと思うようなことを相手にやらせようとしてはいけない。自分の一時間を使う価値があると自信を持っていえる、根拠がある、そういう水準まで準備してから臨むものだ。もしうまくいかなくても、考えて準備していたのなら「何が足りなかったのか」を反省して改善できる。
あとはとにかく「一歩踏み込む」姿勢が大切だと思う。相手の仕事を理解するため、手伝ってより良い結果をだすため、ノーと言わなければならないとき何故なのか理由をわからせるため、様々なケースで、「自分の持ち場」から出ようとしなければ、個人としても全体としても「それなり」の仕事しかできない。自分の持ち場じゃなくても遠慮せず、こうしたほうがよいと思うことは意見するべきだし、口で言うだけでなく自ら手を動かして実践するべきだ。やってみて、よかったなら賛同者が現れるかもしれないし、よくなかったら「こうしたほうがよいと思っていたけど、そうでもなかった」ということが実体験に基づいて学べる。よいけど思ったより大変だった、などの発見があるかもしれない。それもこれも、踏み込まなければ起こらない。