イギリスはロンドン郊外に Chislehurst(チズルハースト)という町がある。昔、ハプニングでこの駅に行ったことがある。
Chislehurst, July 13 2013, 19:53
Chislehurst, July 13 2013, 19:53
その日は Quipper ロンドンオフィスへの一週間の出張の最終日の前日で、たしか土曜だったので同僚とロンドン観光を楽しんだ。ハイドパークで午前中を過ごし、大英博物館を見学し、ロンドン橋のあたりを散策して、ビッグベンの下で別れ、おれはその足でウェストミンスター寺院やバッキンガム宮殿を見に行き、ビクトリア駅から地下鉄でパディントン駅まで帰る予定だった。
見知らぬ土地を一人で闊歩することに慣れてきて、気が大きくなっていたのだろう。おれはビクトリア駅で地上のプラットフォームに停まっている車両に乗り込んだ。まもなく発車する風なアナウンスを見たか聞いたかして、急ぐ必要もないのに焦ったのかもしれない。違和感はあった。地下鉄の車両が地上に停まってるなんておかしい。車両だってそれまで何日も乗ってきたものとは違って大きく見えるし両編成もずっと長く見える。でもそのときは、銀座線だって渋谷では地上にホームがあるし、なんてよくわからない理屈で納得していた。魔が差した、とでもいおうか。未知なる冒険への好奇心が勝ったのか。
Victoria, July 13 2013, 18:55
列車が動き出して数分経ち、一向に地下に潜らず結構な速度で地上を進み続ける車両の中で、おれはだんだん不安になってきた。iPhone 5 を取り出して Google マップをじっと眺める。GPS の青い点はどんどんビクトリア駅から離れて南へ向かっている。自分のミスにはっきり気がついた。パディントン駅は南じゃない、北だ!
ドキドキしながら Google マップを見つめつつも、まだそこまで心配はしていなかった。いずれ次の停車駅に着くだろう、そこで降りて逆方向の列車に乗ればいい、切符の料金のこととかは少々気になるが問題ない……しかし、10 分経っても 20 分経っても列車が止まる気配はない。そして iPhone のバッテリーは見る見る減っていく。モバイルバッテリーを持参していなかったので、バッテリーが切れたらお手上げだ。現地の同僚の電話番号もメモしていない。車窓からの眺めは何の変哲もない田舎といった風情で、地元の若者数名が何をするでもなく座って列車をじっと眺めてる様子などが目の前を通り過ぎだ。ここらへんで本気で恐怖を感じ始め、泣きそうになってきた。
黙って Google マップを眺めるのに耐えられなくなって、近くにいた乗客にカタコトの英語で尋ねた。すみません、パディントン駅に行きたいのですが、この列車はパディントン駅に行きますか?細身のおじさんやふくよかなおばさんなどが口々に返事をしてくれる。たぶん「パディントンは逆方向だ、次の駅で反対行きの列車に乗り換えな」とか言ってくれている。そうですよね、そうだと思ったんです、ところでその次の駅にはいつ着くんでしょうか……そう聞くのも怖くて、ただサンキューと言うので精一杯だった。哀れなアジア人のためにおじさんが「逆方向の列車に乗ってビクトリア駅に着いたら、お前が乗るべき電車はこれだ」とおれが握りしめていた「地球の歩き方 イギリス編」を手に取り、ペンでメモを書いてくれた。
上から
- Underground(ロンドンの地下鉄は subway とか tube ではなく underground と呼ばれてる)
- CIRCLE LINE(路線の名前。銀座線とか山手線とかそんな感じ)
- YELLOW(Circle line は黄色い車両ってことだと思う)
- westbound(よくわからないけど、周回路線の西回りってことかも)
と書いてある。どこの誰かも知らないイギリス人のおじさんの、名前は書いてないけど一種のサインが書き込まれた「地球の歩き方」。思いもよらなかったけど、何よりのイギリス土産になった。
それから数分ほどして列車はチズルハースト駅に到着し、おれはおじさんや周囲の乗客に何度も頭を下げながら降車した。冒頭の写真はバッテリーの残り少ない iPhone で撮った駅ホームの写真。無人改札がぽつんとあるだけの、さびれた駅だった。Oyster カードの残金も心配だったし、もうこれ以上冒険する気にはなれなかったので駅からは出ず、反対側のホームで列車を待った。
ほどなくして列車が来て、ビクトリア駅に着いたら Railway(地下鉄ではなく普通の電車のこと)の改札から出るとき Suica みたいにエラーになったりしないだろうかという心配と、なんにせよロンドンに近づいている安心感とがないまぜになって、とにかくあとはフーリガンまがいのガラの悪いイギリス人に絡まれないようにと座席に座ってじっと「地球の歩き方」の地図を凝視しているうちに列車はビクトリア駅ではなく City 駅だったか Waterloo 駅だったか、ビクトリアよりは東の市街の駅に到着した。微妙に同じ路線ではなかったのだ。でもそんなのどうでもよかった。その駅からは地下鉄に乗れたので、あとは地下鉄の乗り換えだけでパディントン駅に着ける。何線を乗り継いだかは覚えていないが、たぶん黄色の Circle Line には乗らなかった。
こうして、予定よりも数時間遅れてパディントン駅に到着し、ロンドンの遅い夕暮れに浮かぶ駅舎と街並みに安堵したのだった。おれのちっぽけな冒険はこうして幕を閉じた。ビクトリア駅を出発してしばらくは、地元の JR 高崎線みたいな雰囲気の列車がいつまでも止まらず動き続けるので、まさかこのままロンドンよりはるか遠くドーバー海峡のあたりまで連れていかれて今日中に帰れず、明日の帰りの飛行機にも乗れないのではないかと青ざめたものだったが、あとで地図を見てみるとチズルハーストはいわゆる Greater London という郊外エリアに過ぎず、ドーバーなんてもっと全然遠くて、びびってた自分に苦笑してしまった。