月曜は週末ゆっくり休んで元気なことが比較的多く、今日もそんな感じでいい調子だったが、仕事の後に車を運転して食事と買い物に出かけたらまた鈍い頭痛が再発して帰宅後は二時間ほど寝てしまった。偏頭痛持ちではないので目の疲れからくるものだと思うけど、気圧とかそういうのの影響もあるのかもしれない。
職場の社内報的なやつで今年の本社インターン生の紹介記事を見たのだが、総勢二十人くらいで、九割が女性、七割がアジア人(中国系または韓国系)と、ものすごく偏っているように見えて、多様性ってなんだろうと疑問を感じた。
インターン生候補の母集団自体に偏りがあったのかもしれないし*1、ほっとくと白人*2男性ばかりになってしまうから「バランスを取るための調整」が入ったのかもしれない。そういうのを否定はしないし、ある程度は必要な措置だと思うけど、結果としてアジア系の女性ばかり、というのはどうなんだろう。
アメリカのテック業界では多様性(を促進する取り組み)に対して否定的な意見を表明するのは社会的な自殺行為で、日本でもそういう流れは(例によって後追いだが)出てきていると思う。うちの会社は特にそういうのには熱心なほうだから、社内ではもちろんそんな話題には触れない。誤解を招かずセンシティブな話題で問題提起できるほどの英語力はないし、万一問題視された場合に自己弁護できる自信もない。というか問題視された時点で一発アウト、即クビだろう。自分は白人男性ではないのでイエローカードで済むかもしれないが、リスクは高い。自分には直接利害関係がない話だし、触らぬ神に祟りなし。でもモヤモヤするのでここにひっそり書いている。
広い視点で見れば、会社内だって白人男性がマジョリティだし、業界全体でもまだまだ圧倒的にそうであるはずで、だから局所的には逆に大きく偏らせて強めにバランスを取り戻しにいくべきだ、という議論は理解できているつもりなのだが、それにしたってちょっと調整度合いが強すぎやしないか、と思ってしまうのは、自分の立場を脅かされるような恐怖心でもあるんだろうか。
こういう疑問も多様性について理解を深める良い機会になる気はしていて、なので然るべきところに問題提起すれば建設的な議論になったりするのかなとも思うけど、アンタッチャブルな話題なので触れずにスルー、というか表面的には手放しで褒め称える、みたいなのは健全ではないと思う。社会で窮屈な思いをしている人たちが減るように、というのが多様性を認める意義の一つだったはずだと思うのだが、それが行き過ぎて新たに窮屈な思いをする人が増えているのは皮肉だと思う。
窮屈保存の法則とでもいうか、誰かが不自由な思いをするのは不可避で、今までそれを強いられて我慢してきた女性やマイノリティたちが自由を得る分、今度は今まで自由を謳歌いや貪ってきたマジョリティたちが我慢する番だ、という話なのだとしたら、うーん、バランスは取れているのだろうし、どちらかといえばマジョリティ側だった自分に発言権は無い気もするが、しかし不自由な思いをする人の総数を減らすという方向性でやれなかったのか・・・と思ってしまう。