@kyanny's blog

私は天才ではありません。ただ、人より長く一つの事と付き合っていただけです - アインシュタイン

「MAD美味しんぼ」ノート

2005年9月23日

「MAD美味しんぼ」3題(放射能料理対決、究極の化学調味料、焼きそばパンを守れ)は、有名な料理漫画「美味しんぼ」のパロディーであり、みんなきてKOIKOIの「逆・美味しんぼ」(まずいラーメン屋勝負まずい焼き鳥勝負)と、旧・EiFYE原子力発電所の「原発D」に刺激を受けている。また最後の「焼きそばパンを守れ」は、きんぎょ注意報!TV版(漫画版にはない)の同名のエピソードとのクロスオーバーになっている。

名作「原発D」へのオマージュとしては、豆腐勝負をやり「この豆腐は見た目はきれいだが、内部のきめが滑らかでない」「運搬中に極端な横Gがかかっているのだ」「しかも煙草のにおいがする」などとギャグをかますアプローチも思いつくが、放射能料理という一見マッドなことを言いだし、「料理と電磁波は深い関係にあります」などと、ギャグを入れずに淡々と真剣にクレイジーな話を展開するほうが、おもしろい。

ただ、体を張って本当に「究極のカップめん」(バニラエッセンスめん、とか)をやった当事者の「逆・美味しんぼ」や、原発の元職員が書いた「原発D」には「本物の迫力」というものがあるわけで、リアルな行動を伴わないすべてが脳内の妄想であるMAD美味しんぼは、良くも悪くも妖精クオリティーというべきだろう。

オリジナルの「美味しんぼ」は、細部についてはいろいろあるとしても、全体としては綿密な取材・研究をベースにしていることが伝わってくる力作であり、内容も優れている。しかし、問題点もある。基本が短編の読み切りである以上やむを得ないことだが、往々にして、極めてご都合主義的な展開が起きる。「機械仕掛けのヒント」「あり得ない確率での出会い・再会が繰り返されること」がそれだ。

MADの1話で、山岡たちが放射能をどう料理に結びつくのかまったく分からず悩んでいると、突然、二木まり子が現れ、機械仕掛けのヒントをもたらす。「そうか、その手があったか」「どうしたの山岡さん?」…よくあるパターンだ。MAD2話では「よくお会いしますね」「ストーリー展開の都合だ」、3話では「話は聞かせてもらった」「どこからわいて出たんだ」と、さらにギャグ的に、ご都合主義に対する自虐ネタが繰り返される。

もう一つの「美味しんぼ」の問題は、人間関係の飽和だ。長期連載の副作用として、結合可能なカップルはみんなくっつき、けんかは和解し、どんどん「熱力学的平衡」に達して、初期設定の鮮烈なポテンシャルの山が崩れ、全体がぬるくなってしまう。金上の投入は系を揺らそうとする人為的努力だが、悪役は退治されることがストーリーの力動であるため、入れたそばからぬるくなり始めるインフレがあり、マンネリに陥る。宇宙最強の敵、ラストボスなどを出すと、もうやることがなくなってしまう。
主要登場人物の親友なども出尽くしてしまっていて、赤ん坊でも生まないことには新しい要素がないが、赤ん坊は成長がドラマであるため、時間が停止している両親との間で不整合が起き、作品世界の破綻を招きやすい。

こち亀も人間関係のインフレが起こり、次々に兄弟姉妹を登場させたり、赤ん坊の投入を行うが、サザエさん・ドラえもん型の円環時間であること、基本がギャグであること、
そして何より作者の創造力のものすごさによって、飽和を感じさせない。ギャグであれば設定の破綻もギャグにできる。これに対して、美味しんぼはリニアな時間経過があり、しかもパターンが限られているので、長いスパンでは原理的な困難が予想される。

「美味しんぼ」には、しばしば政治的・文化的プロパガンダが含まれている。これは欠点ではなく作品の特徴と言うべきであり、内容の是非、主観的な好悪はともかく、
それはそれで良い。上記のように、もともとパターンが限られているので、料理と関係ない面で、かなりどぎついことを混ぜないと、メジャーとしては、もたないであろう。
料理対決という構図そのものが既にそうした「どぎつい」ネタなのだから、政治的にどぎつい主張などがあっても、だから良い悪いということにはならない。

MADでも「美味しんぼ」の特徴を踏襲して、順に原子力問題、食品添加物、日本人の誇りというモチーフを入れている。MAD1話では、ゆう子が「原子力にはたくさんの平和利用の分野があるのね」などと、まとめを入れる。いかにもとってつけたような不自然なせりふだが、ゆう子にそんなことを言わせることは「美味しんぼ」の構造に対する批判であり、それは作品を真剣に受け止めているからでもある。3話ではアメリカの食物が感心しないと言ったり、「自国の文化さえ尊重できずに、他国の文化を尊重できるわけがない」と言ったりする。こちらは「尊皇攘夷」とまで叫ぶのでネタであることが分かりやすい。

ネタと言えば、二木まり子がヒントを持ってくるとき、いったんストロボの柄にふることについては、「今さら」感もあるだろう。単体では確かに陳腐だが、東西新聞が朝日新聞をほうふつとさせること、栗田ゆう子のイニシャルが偶然KYであることなど、おさまりが良く、何より「機械仕掛けのヒント」に対して否定的な考えなので、わざと別の話を入れ、珊瑚礁、南の島のバカンス、日焼け…と少しはひねっている。ストロボの柄のネタは今さら朝日新聞がどうこうでなく、むしろ「美味しんぼ」のストーリーの組み立てに対する批判であり、「単にヒントを持ってくるだけのために登場するキャラ」ではなく、ヒント以外にも芸をさせろ、という主張を実践している。それがたまたまそのネタだったというだけで、特定の新聞が常に悪いという主張は特定の新聞が常に正しいという主張と同様にあほらしい。

話を戻して、「美味しんぼ」のプロパガンダの中には根拠がしっかりしていないものもある、という批判もあるようだ。だが、「間違ったことが書いてある」と腹を立てるのは、そのメディアが絶対的に正しい情報のみを伝えるべき神のごとき存在であるという信仰の裏返しであり、そのような信仰が既に間違っている。「影響力の大きいマスメディアであればあるほど、正確・中立であるべきだ」という理念なのかもしれないが、むしろそれは逆で、どこかで情報が操作されると仮定した場合には、影響力の大きいメディアであればあるほど嘘が含まれている可能性が高い。情報戦では、影響力の大きいチャンネルをハッキングした方がコストパフォーマンスが良いからであり、象徴的に言えば、トイレの落書きを書き換えようとはしない。

細かいことを言えば「美味しんぼ」のせりふに登場する外国語のアクセント記号が間違っているところなどもある。しかし普通、それは単なる誤植だと思い、たいして気に留めないだろう。では社会的な主張で賛成できない面や(仮に)明らかな間違いがあるとして、どうしてそれが綴りの間違いより重大なのだろうか。単語の綴りや漢字の間違いは許容でき、主張の間違いが許容できないという場合、どうしてそう考えるのかいろいろな分析ができるだろうけれど、確実なのは許容できる間違いとできない間違いという区別は、相対的なものであるということ、そして、やはりどんな情報にも、故意か偶然かはともかく、誤りが混入することはあり得る、ということだ。

情報はどうとでも加工できるものであり、最終的には観測者の心なり脳なり意識なりによってパースされる。「本物」のうまいスープと分子レベルで成分が同じものを化学的に合成したら、原理的にABXできない、というMAD2話「究極の化学調味料」は、まさにこの点を突いている。これに対しては、料理人の真心が…愛情が…といった精神主義的反論が可能であろうが、MAD版ではこの点、唯物的な立場になっている。

MAD3話で雄山が「料理の基本は相手を喜ばせることだ」ともっともらしいことを言うが、
この相手とは、見栄っ張りの藤ノ宮千歳である。彼女の性格上、料理がうまいかまずいか、といったことより、雄山のような権威ある人物が「これは素晴らしい」といえば、それだけで考えを変えてしまうことは明らかだ。「料理の基本は相手を喜ばせることだ」と言っても、そもそも彼女は料理の内容など最初から気にしていない。自分の学校の購買部で焼きそばパンが人気商品であることを由梨香に知られたら、田舎者とさげすまれるだろう…という不安を感じているに過ぎない。ただし千歳の性格はTV版では誇張・単純化されており、原作ではもう少し複雑である。また上記は千歳の悪口ではない。それどころか、千歳には非常に親近感がある(性格が似てるので)。それにしても「かないみかと、こおろぎさとみの区別がつかない者は、美食倶楽部に入会できない」という雄山。MADである。どういう倶楽部だ…。

いろいろもっともらしいことを書いたが、「MAD美味しんぼ」は要するにMADであり、完全に説明できるものではない。Winnyの開発動機が争われているとかいうことだが、普通は、こういう動機で創作しました、というものではなく、ポコッとアイデアがわいて、それ自体に突き動かされて、夢中で書いてしまうものだろう。