エリン・メイヤーの「異文化理解力」は途中までとても楽しく読んだところで本がどこかへいってしまい、読み終えてないのだが、『異文化理解力』 - 世界線航跡蔵の読書メモを読んで、数年前に自分がマネージャという役割にとても苦しんだ理由の一端に気づいたので書き留める。
自分にとって、マネージャとは上司のことであり、意思決定者のことである。自分は日本生まれ日本育ちで、おおむね日本的な文化のもとで生活してきた。そんな自分は、上司は偉く、権限を持ち、責任が重く、自分より能力が高く*1、威厳ある振る舞いをするものだ、という価値観を持っている。自分は階層主義の支持者である、といえる。
これまで自分が所属した組織は、様々な理由で*2、比較的トップダウンの意思決定をする傾向があった。なので自分はトップダウンの意思決定に馴染みがあり、意思決定者は毅然とものごとを決断するものだ、という価値観を持っている。自分はトップダウンな意思決定の支持者である、といえる。
組織の構成員としての自分は、これらの価値観を規範として内面に持っており、上司や意思決定者には、それが誰であろうと、原則として上記のように振る舞うことを期待する。
一方、個人としての自分はもっと平等主義・合意主義を好む。これは組織人としての自分が持つ規範と相反する。そのような思想を持つに至った理由は、はっきりとはわからない。自分の規範が規定するレベルを満たさない上司への反発もあっただろうし、インターネット業界のややリベラルな文化に影響も受けただろう。ともかく、組織の構成員である前に一個人である自分は、反階層主義・反トップダウン主義の支持者である、といえる。
真逆の価値観を同時に内面に持つことは、マネージャとしての自分を苦しめた。マネージャとして規範となる言動をとれば、個人としての自分が強く反発し、アレルギー反応を起こす*3。逆に、個人の思想に基づく言動をとれば、規範を満たさない落第マネージャとしての自分への自己批判が始まる。自分自身で自分自身を、異なる二つの価値観の壁で板挟みにしていたようなものだ。ストレスで病気にもなったのも不思議ではない。
マネージャの仕事には他にも様々なストレス要因があり、それらの多くはいずれも自分がマネージャという役割を忌避するに足るものなので、そのうちの一つについて理解が深まったり整理がついたからといって、またマネージャをやろうという気にはならないのだけど、少しはすっきりした。