@kyanny's blog

My thoughts, my life. Views/opinions are my own.

$age++

42 歳になった。最近、サラリマンとしての自分の人生を見切りつつあるのか…?と考える。見限る、ではない。悲観はない。諦観はある。社会人になって二十年、これまでで最も安定した大企業で好待遇の仕事に就いた。もうこのままずっとこういう感じで、おれの人生には血湧き肉躍るような出来事は起きないのかもな、と思うこと、そしておれはたぶんもうそういう人生に適応できてしまうだろうこと、それが少し哀しい。だが、幸せなことなのだろうとも思う。

おれのキャリアは Quipper の七年間でピークを迎えたのかもしれない。本当におれにとっては奇跡的な日々だった。あの七年があったから今があるのだし、もうあれ以上を望むのは欲張りというものだ…という気持ちが少しずつ強まっている。それくらい濃密な経験をさせてもらった。あれと同じようなことをもう一度やれと言われてもできそうにないし、やれるけどどう?と誘われても、もう十分だ、あとの余生はもう消化試合でもいい…というほど前向きなわけではないが、しかし、それでも構わない、仕方ないよなという諦めはつく。

おれはそんなにすごい人生を送れるような人物ではない、なかった、そもそも。「足るを知る」ことは大事だと思う。とりわけ、凡人が不幸にならないためには。分不相応な欲を持っても自分を苦しめるだけだ。若い頃はそんな小賢しさはクソ喰らえだと思っていたし、まあ今でもそう思っているけど、歳をとるにつれて「まあでもそうするしかないよな」と思うようになった。

凡庸は悪だという価値観を保ちながら自分の凡庸さを認め受け入れるのは不可能だ。遅かれ早かれ正気を失って自滅するか他者を巻き込んで破滅に向かう。理不尽で自暴自棄な事件の報道を見るにつけ、これはおれの人生の if でもあったのだろうかと考える。そんな if に分岐しなくてよかったのだ、その代償が小賢しさで済むなら安いものだ、そうだろう、そうなんじゃないかな、でも本当にそうなのかな、いやそうなんだろう。なんてことを考える。

ここをちゃんと前向きな諦めで総括できれば、次のブレイクスルーに向かって進める予感がする。劇的ではないけど着実で、人間的に一回り成長できるような。