@kyanny's blog

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型化とは何か

友人と雑談していて出た話題。なかなか良い整理ができたと思うので忘れる前に書いておく。

友人が「企画職など biz 側の人たちがよく『型化』『仕組み化』という言葉を使うが、dev 側からすると『え、そんな基本的なレベルの話?』と思うようなことを指していたりする。型化という言葉の定義が人や組織によってあまりにもバラバラで、それが不思議」みたいなことを言って、面白い話題だったので話が盛り上がった。

友人は dev 側が普段からやっている「仕組み化」の例としてソフトウェアのデプロイを挙げ、手順書を作るチームもあればツールで自動化するチームもある。手順書にしても書き方はまちまちだし、自動化もツールを自作することもあれば既製品を使うこともある。これほどありふれた、本質的には誰がやっても同じであるべき作業ですらスタンダードがない。型化って一体何なんだろう?と疑問を述べた。

聞いていて思いついたのが、「型と型化は違う」ということ。デプロイの例でいうと、自動化は「型」を作ることだ。型は不変で、安定している。自動化には人が介在しないので、やはり安定している。それは型「化」とはいわないのではないか。誰かが型化・仕組み化しましょうと言うとき、暗黙に「人によってクオリティにばらつきがある不安定な仕事を、誰がやっても一定のクオリティを保証できる安定した仕事にしよう」という目的が置かれている。つまり人の介在を前提としていて、ある程度のばらつきは許容している。

型化を極限まで突き詰めると型になる。「このマニュアルに従って一連のプロセスを実行すれば、誰がやっても全く同じクオリティの結果が出せることを保証します」というわけだ。が、型になったらそれこそ自動化して機械にやらせれば済むわけで、そして人間はロボットにはなれないから、型化は「型になるまで厳密化しすぎてはいけない」という微妙なバランスを保たないといけない。ここが人間味があって面白いところだ。


リクルートの営業組織は、この「型化」が非常に上手いと思う。人間を型にはめて動かそうとするとうまくいかない。人間はロボットではないのに「ロボットとして振る舞え、正確に型通りに行動しろ、お前の個性や感情など不要だ」と言われたらついていけない。しかし型化は「型」に近づくほど効率・能率が上がるし、そもそもばらつきを減らすための型化だから個性を消す方向に設計されるのは当然でもある。このジレンマをリクルートは「お前は何がしたいんだ」と問い、論点をずらすことで解決している。

「お前は何がしたいんだ」という問いはアイデンティティに対する問いであり、「個性」を強烈に意識させる。毎日「型化」されたプロセスに沿ってプログラムされたロボットのように正確にタスクをこなしながらも、「わたしは何がしたいのか、わたしは何のためにこれをやっているのか」と自問させ続けることで、他者とは違う自分に固有の「何か」を発見させる。均質な集団の中だとごくわずかな差異にも大きな違いを見出す、というのはよくあることだ。ロボットにかりそめの自我らしきものを植え付け、あたかも全く違う存在であるかのように思い込ませることで、ロボット化されることへの抵抗感を無くしている。

「お前は何がしたいんだ」のうまい、そしてこわいところは、あくまで「お前 = わたし」の問題である、と思わせるところだ。この呪文が効かない人間は自分を「型化」しきれず、適応できずに悩み苦しむことになるが、「それはお前が『お前は何がしたいんだ』への答えを持っていないからだ」と転嫁されてしまう。真の自我を獲得してしまったロボットはもはやロボットではいられないから不要、というわけだ。しかも「お前は不要だ」とみなまで言わず、ロボット自身に「わたしはここを去りたい」と思わせる。極めて強力な呪いのようでもある。


話がそれた。別にリクルートの悪口を言いたいわけではない(もう言ったけど)。型化の話だ。プログラミング言語で無理やり例えると、型化という考え方をよく体現しているのが Python で、アンチ型化の極地にいるのが Perl だと思う。Python は「同じ処理をするプログラムは、誰が書いても同じ見た目になる」と評された。他方 Perl は TMTOWTDI - There's More Than One Way To Do It.(やり方は一つじゃない)がモットーだ。「楽しさ」を重視する Ruby も、型化とは異なる価値観に根ざしているように思う(matz が Ruby に静的型を取り入れたがらないことにも通じる)。

まとめると、型化と型は違う。型化は人間の介在を前提として、人間をロボット化しようという発想である。型はロボットそのものである。

なぜ型化(ロボット風人間)が型(ロボット)で置き換えられていないのか。単純にコストの問題だと思う。多くの仕事は、現実的なコストで調達できるレベルのロボットにやらせるには複雑すぎる。人間を効率よく働かせたほうが安上がりだ。つまり、将来もっと高性能なロボットが安価に入手できるようになれば、これまで「型化」されていた仕事がどんどん「型」になっていき、いずれ「型化」は死語になるだろう。人類の死後の話かもしれないが。